雑記

・夏の間は、アイスアイスごはんアイスアイス、みたいな食生活を続けていたのですが、夏が衰えだすとアイスの種類が氷菓やミント系などのさっぱりしたものからどっしりしたチョコレート系に変わってきます。不健康とわかっていますが、もうしばらくはたぶんこんな感じです…。

・人に借りた山崎ナオコーラさんのエッセイ集を読了。“書きたい小説”についてかなり熱っぽく、率直な言葉で書いてあって、微笑ましいような気恥ずかしいような気持ちになってしまった。

・ちょうどネットでこのあたりの記事を読んでいて、親に愛されて育った人の精神的基礎体力や性格・性質の傾向みたいなものをぼんやり考えていたのだけど、ナオコーラさんはきっと「父に愛された娘」なんだろうという気がした。あと、これはなんとなくだけど、HKTの指原さんも。

マスダ80年代女性アイドル論~松田聖子論
花火のあとで/傘をひらいて、空を

・なりたい自分や達成したいことを周囲の人に表明するのは意外と勇気がいることだと思うのだけど、愛情面で育ちのいい人はそれをためらわない傾向がある気がする。私はやっぱり苦手なほうなのだけど、その理由を考えたら「達成できなかったときに恥ずかしい(何か言われる)」くらいなもので、公言することで得られるかもしれない理解や賛同、それによる協力を思えばそんなの小さなことなのかもしれない。

・先回りして心配したり、考えすぎて動けなくなったりするのはやめていこう。(と、自分に言い聞かせる)

・おいしいチョコレートアイス情報求めています。

夏の終わりと続けたい人

今朝、細くあけた窓から冷えた風が入ってくるのを感じて、夏が終わったなと思った。

先日、久しぶりに会う人と食事をして甘いものを食べてお酒を飲んでたくさん歌って、起きたら立派な二日酔いで、だけど気分は妙にカラリとしていて、こんなのは最近あまりなかったから、頭は痛いし身体も肌も乾いていたけど不快ではなかった。

大事な人だと思う。こういう人と、適切な距離を守って長くつき合っていきたい。

そら豆のサラダ


うつわ:井山三希子 粉引面取りボウル、富井貴志 カッティングボード(楢)


茹でたそら豆は、うちの犬の足と同じにおいがする。スナック菓子みたいな香ばしいにおい。それに気がついたのは3年くらい前の話で、元々好きだったそら豆をそれからもっと好きになった。だけど、人とそら豆を食べているときにそのことを話すと大抵微妙な顔をされる。

そら豆はおいしいし、うちの犬はかわいいのだからいいのにと思うけど、そういえば私も別に人の家の犬をそれほどかわいいとは思わないのだった。自分のものは実際より悪く見えるかよく見えるかどちらかで、フェアな批評をするのはとても難しい。

あと、そら豆のさやの内側はどんな布団よりも気持ち良さそうに見えるので、夢の中でもいいのでいつかそこに横たわってみたいと思う。



そら豆は塩、胡椒、オリーブ油、白ワインビネガー、パルミジャーノ・レッジャーノと和えてサラダにしました

巡る季節と春のごはん


菜の花と厚揚げの炊いたの、新玉ねぎのサラダ、新玉ねぎ入りつくねの照り焼き/うつわ:上から時計回りに 岸野寛 灰釉菊形皿6寸 横山秀樹 モールコップ 岡崎勉 灰釉片口鉢 古谷宣幸 種子島向付

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仕事帰り、落ちきらない陽がうす赤く山際を染めているのを見て、随分日が長くなったなと思った。暑くなったり寒くなったり花を咲かせたり散らせたりしながら季節はぐんぐん進んで、新緑の季節はもう目の前にある。

春の食材をたっぷり食べたいと思いながらも品数の少ない一人暮しの食卓ではそれもままならず、気がつけばうすい豆も食べないままにナスやキュウリや茗荷などスーパーの棚にじわじわと夏が進出してきてしまっている。それでもなんやかんや作っては食べている今日このごろ。

ちなみに、最近作ったのはこんなの。


そら豆の翡翠煮/うつわ:横山秀樹 鉢

あさりと水菜の潮汁/うつわ:猪狩史幸 盛椀

筍ごはん/うつわ:岸野寛 灰釉飯碗


先日、店にきた小さな男の子が私のことをいたく気に入ってくれて、私の腰にぴたりと張り付いたまま離れようとしなかった。小さくてむくむくした手や、絹糸みたいに細くなめらかな髪、つるつるした頬を赤く染上げる血管がかわいい。
「初恋かなー?」とその子のお母さんが笑ったので、それを受けて私も笑う。男の子は私のブラウスの裾をぎゅっと握る。更にかわいい。今年31歳になる私でよければ、存分に恋したまえという気分になる。そして、あなたもいつか本当の恋をするんだよ、と思う。

手も髪も頬も何もかも、これからぐいぐい大きくなってもう二度と今のサイズには戻らないし、私のブラウスの裾をちぎれんばかりに握るその小さな手はじきに誰かの手を引くようになるのだろう。

日々、冴えていく木々の緑。
変わらぬ季節の巡りに心励まされ、けれど時間は二度と戻らないのだと強く思う。

雑記


・以前、このブログで30歳の別れには30歳の別れの悲しさがあると書いたのだけど、言霊なのかなんなのか実際に30歳のいま、ひとつ大きな別れをした。どれだけつらいのかと想像していたけれど、確かにとてもつらくはあったけれど、それ以上に何か大きく重いものを肩からおろしたような爽快感と安堵があった。
・本当はもっと前に、具体的には3年前にそうしておくべきだったと思った。
・この3年間、進むほどに溶ける泥舟に乗っているような感じで、それでもせっかく作った船だからと降りられなかった。どちらも心の底では逃げ出したかったのだと思う。私も彼も、もっと早く降りるべきだった。
・6年程前の1番つらかった時期を共有し支えてくれたのが彼で、その感謝はいつからか呪縛に変わったのだと思う。彼以外に私のことを真に理解してくれる人はいないのだと、他につき合っている人がいてもいつも思っていた。まさに呪縛だ。だって、そんなことは本当は全然ない。ないのに。
・男と女は異性間の恋愛を超えたつきあいをしていても(それ自体が錯覚なのかもしれないけど)、結局別れたら他人になるのだと思ったら、むなしくなったけど楽になった。
・なにやらいろいろ軽くなったので、違う場所に行けそうな気分になっている。

富山に行ってきました/作る手

先日、仕事で富山に行ってきました。京都から約5時間、富山西ICで高速を降りしばらく走ると白くそびえる立山連峰が眼前にあらわれて、その厳しく、圧倒的な姿に思わず声を上げてしまいました。京都の低くて穏やかな形の山とは全然違う、ソリッドな美しさ。あとで聞けば、その日は特別に山がきれいに見えたのだとか。

今回の富山行きは、あるガラス作家さんを訪ねるためでした。

仕事の話を少ししたあと、ガラス制作のデモンストレーションを見せていただいたのですが、何度も窯に入れては形を作り、少しずつ「作品」になっていくガラスを見るのはとても興奮する体験で、本当にすばらしかったです。



陶器と違い、ガラスはその形を作るときに手でふれることはできません。
だから、ハサミやトングや濡らした木板などいろんな道具を使うのですが、絶え間なく動く道具をじっと眺めていると次第にそれが道具なのか手なのか、その境界が曖昧になっていくような錯覚に捉われました。
そして美しいものを作る手は作品同様、また美しいのだなぁと思いました。