雑記

もう何年も前のことになるのだけど丸谷才一の「笹まくら」を読んだ。すばらしい小説で、読んでいるときはもちろん、その後もずっとその物語が自分から離れていかないような感覚がある。物語は戦中、徴兵から逃げた男の話だ。赤紙が来たその夜に家を抜け出し、そのまま終戦までを放浪して暮らした男。その男は戦後、大学の事務員として働き、結婚もし、子どもも生まれてそれなりの普通の暮らしをしている。だけどあの日逃げ出したことがずっと負い目となり男はずっと何かに追い詰められたかのような心持ちで暮らしている。そんな暮らしはだんだんうまくいかなくなる。最初は1章ずつ過去と現在を行ったりきたりしていたが、後半になるにつれその間隔は狭くなり、最終盤には章立ても行あけもなく過去と現在が入り乱れる。ただ振り回されるように読み進め、読み終わった直後は放心状態。しばらくして私に残ったのは、遠ざかったはずの過去が時がたてばたつほど身近に迫ってくる恐怖だった。

遠ざかって薄れていくはずの過去が、その取り返しのつかなさゆえにむしろ段々と近づき迫ってくるという感覚だけがべったりと張り付いてしまっている。過去にとらわれるな、変えられるのは未来だけだというけれど、この先どんどん過去ばかりが拡張して変えられる未来は縮小していく。変えられると思った未来が過去に塗りつぶされて、逃れられると思っていた過去が気づけば背中に重く張り付いて、身動きがとれなくなるんじゃないのか。そんな怖さがあの小説を読んで以来離れなくなってしまった。

ただ、今、ここ。
そんな風に生きれたらきっと楽なんだろうなと思う。過去への執着も、未来への希望も持たず、ただいまここだけを懸命に生きる。

話は変わって、私は来年いま住んでいる場所の横に家を建てることになった。いまの二人が建てられる小さくささやかな家だけど、それでも私にとっては大きな買物であり、いままさに背負おうとしている過去という感じがしている。どんだけネガティブなんだよという感じもするけど、これまで住んできた家はみんな実家も下宿先のアパートも就職してから住んだ母持ちの分譲マンションもいつかそこを出ることが前提の「家(仮)」だったことを思うと、なんかすごいことを決断しちゃったな、みたいな気持ちになる。しかも実際には決断というより、行きがかり上そうなったみたいなところもあるし。だけどそれが怖いからと逃げ出したら、今度は逃げたことが逃げられない過去になる。何かを選ぶということは、何かを選ばなかったということなんだ。当たり前だけど。(のっちのインタビューを思い出した)

改めて、いまここ、と思う。これまで通った無数の分岐点で行く先を選んで立っているいまこの場所。これから先も、どこに行くかはわからないまま何かを選んで何かを選ばずに進むしかなくて、その度にいろんな感情が去来するのだろうと思う。願わくば、あの時選ばなかった人やことやものを、それでもせめて時々思い出していたい。それが呪いだとしても、手に入れたものだけでなくて手放したことで得た今なのだということを忘れずにいたい。手放したけれど、今の私に繋がるものなのだと思い続けていたい。