富山に行ってきました/作る手

先日、仕事で富山に行ってきました。京都から約5時間、富山西ICで高速を降りしばらく走ると白くそびえる立山連峰が眼前にあらわれて、その厳しく、圧倒的な姿に思わず声を上げてしまいました。京都の低くて穏やかな形の山とは全然違う、ソリッドな美しさ。あとで聞けば、その日は特別に山がきれいに見えたのだとか。

今回の富山行きは、あるガラス作家さんを訪ねるためでした。

仕事の話を少ししたあと、ガラス制作のデモンストレーションを見せていただいたのですが、何度も窯に入れては形を作り、少しずつ「作品」になっていくガラスを見るのはとても興奮する体験で、本当にすばらしかったです。



陶器と違い、ガラスはその形を作るときに手でふれることはできません。
だから、ハサミやトングや濡らした木板などいろんな道具を使うのですが、絶え間なく動く道具をじっと眺めていると次第にそれが道具なのか手なのか、その境界が曖昧になっていくような錯覚に捉われました。
そして美しいものを作る手は作品同様、また美しいのだなぁと思いました。

練乳を作る


これは去年作ったときの写真。

ここ数日はすっかり春らしい陽気で、買物にでかけてもほしくなるのはきれいな色柄のぴらぴらした服ばかり。とりあえず、先日仕事帰りに5月の景色を思い浮かべながら爽やかなレモン・イエローのブラウスを1枚買いました。

スーパーの青果コーナーも春感に満ち満ちていてうれしいので、用もないのに毎日寄ってしまいます。近所のスーパーでは入口すぐのところに大々的ないちごコーナーを設け、いちご界の女王・あまおうはじめ、とよのか、とちおとめ、さちほのか等々さまざまな品種が並び甘い香りを放っています。アガる…!!

中でも私が気に入って買っているのは熊本のひのしずくで、色がきれいで酸味が少ない品種です。しかも、最近はパッケージに熊本が生んだ最強最愛のゆるキャラくまモンが使われているものが並んでいて、私の中でひのしずく無双状態になっています。

で、いちごのお供にほしくなるのが練乳なのですが、一昨年自作したらびっくりするくらい簡単だったため、それからは家で作ることにしています。

材料は牛乳と砂糖だけ。牛乳400mlに対して、砂糖を100ml。ゆっくり弱火で煮詰めていって1/4くらいになったら完成です。早く煮詰めたいからとぐつぐつ強火にかけてしまうとなめらかな練乳にならないのでそこだけ注意。作る量にもよりますが、20〜30分は鍋に張り付きになるので時間と気持ちにゆとりがあるときに作るのがおすすめです。文庫本を片手にどうぞ。

そして、練乳を作ったらぜひ一緒に作ってみてほしいのが練乳バター。ホイップしたバターに練乳を入れて混ぜ合わせるのですが、バターは有塩でも無塩でも大丈夫です。今回は有塩バターで作ったので、甘じょっぱい仕上がり。パンに塗ったり、ビスケットに挟んだり、パンケーキに使ったりするとおいしいし、効率的に太れます。


私は今回フレンチトーストに使いました。
カロリーって…おいしいですよね…(思い出しうっとり)

※今回、写真はiPhoneで撮ってinstagramで加工してアップしたものを使いました。

これは土楽の口付黒鍋で七草がゆ作ったときの写真。おかゆおいしかった…


だいぶ前の話になるけれど、テレビで関東で大雪が降ったというニュースを見ながら、京都にも降ればいいのにと思っていました。その日、京都の気温は今冬最低を記録したのに、薄灰色の雲が覆う空からは点々と雨粒が落ちてくるだけで、つまらなかったのです。索漠とした冬の景色は嫌いではないのだけれど、ふっくらとした雪景色のがずっといい。そういえば、雪景色は室内から見たら街が真綿に覆われたようでむしろ暖かそうに見えますよね。

冬の京都は降雪はないけれど毎日苛烈に寒いので、暖をとれるようなものばかり作って食べています。3年目になる土楽の片手土鍋はいよいよこれなしには越冬できない存在となりつつあって、12月に入ったころからコンロの上に常駐しています。

仕事が終わるのが19時頃で、そこから自転車を飛ばせば帰宅は19時15分。体重を増やさないためには20時には夕飯を摂り終わる必要があるので、部屋着に着替えたらすぐにキッチンに向かいます。15分で調理を済ませなければ20時に間に合わない。

鍋に水をはり、昆布を一切れとすりこぎでたたいた1片の生姜、年末に人からもらった日本酒を適当に放り込む。それを火にかけたら具材の準備。豆腐、水菜、きのこ等々適当に冷蔵庫にあるものを切って、鍋が沸騰したら火の通りにくいものから順に入れていく。たまに、最後に溶き卵をまわしかけるときもあります。

柚子胡椒、ポン酢、塩にごま油、練りごまを麺つゆで溶いたものなど、味のバリエーションは無限にあるから、飽きません。具だって毎日違うのだし、たまには肉類が入ることだってあります。この前は父が持ってきてくれたカニまで入って大変豪華でした。

煮えた野菜は熱くて、飲み込むと胃から末端へじわじわと熱が拡散していきます。視界の端にはおこぼれを期待する飼い犬が目を爛々と輝かせながらおすわりをしているので、鍋の中にネギが入っていなければ少しだけあげたりして。

1人と1匹。時々、3LDKのマンションの1室にそれしか生命がないというのが不自然なことのように感じられます。本棚とシーズン外れの服が置いてあるだけの部屋なんて、本当はないほうがいい。北に面したその部屋はとても寒くて、部屋と廊下の扉をぴったりと閉めた上で暖房の効いたリビングにいてもそこから冷気がのびてくるような気がします。
犬と一緒とはいえ、やっぱり1人で暮らしているのはつまらない。すぐに終わってしまう晩ごはんも。この寂しさにいよいよ耐えきれなくなったら、結婚して東京に行こうかなぁ。積雪10cmで右往左往するテレビの中のこの街へ。あーでもやっぱり、あんまりイメージがわかない…。

私を作る味


たまに猛烈にソース味のものを欲するときがあるのですが、夜は炭水化物をとらないようにしているので写真のようにお弁当にお好み焼きを持っていくことになります。

街の数だけお好み焼きがあると何年か前のMeetsには書いてあったけれど、ほとんど外食をしない家で育った私にとっては家族の数だけお好み焼きがあるというほうがしっくりきます。ちなみに、うちの実家は父が昔広島の大学に通っていたことがあるせいで、京都×愛知という組み合わせの夫婦のくせにお好み焼きは広島風でした。

しかも焼くときに上からぎゅうぎゅう押し付けるものだから、できるお好み焼きはぺったんこで、たいしておいしくはなかったのですが好物でした。というか、味云々ではなくホットプレートを前に普段料理をしない父が妙に張り切ってあれこれしているのが好きだったのかもしれません。(豚肉は先に焼くとかキャベツの切り方とかソースは2種類を混ぜて使うとか、いろいろうるさかった)

お好み焼き、トンカツ、オムレツ、卵焼き、具のないインスタントラーメン、ほうれんそうのごま和え。父に作ってもらった料理はそんなに多くなくて、だからなのかどれもはっきり覚えています。

とりわけ印象深いのがオムレツで、父が作るオムレツは中にコロッケのタネに似た具がたっぷり詰まっていました。「これはお父さんが貧乏な学生だったときによく作ったんだ」と父が話してくれたことがあったため、私は心の中でこれを「貧乏オムレツ」と呼んでいます。隠し味というわりに隠しきれていない砂糖の甘味がいかにも舌も懐も貧弱な学生が作りそうな味で、だけど、おいしそうに食べると父がうれしそうにするものだから、おいしいおいしいと言って食べていたら知らない間に本当に好きになってしまったオムレツ。だから、自分好みにアレンジを加えてはいるけど、実家を離れて一人暮しになった今もたまに作って食べています。

思い出すのは、中学3年生のある時のこと。
母が不在の日曜の昼、2つ上の兄が貧乏オムレツを前に「またこれ?俺、これあんまり好きじゃない」と言い放ったことがあります。私はその瞬間、内蔵がきゅーっと縮んだような気がして、咄嗟に「じゃあ私がお兄ちゃんの分ももらう!わたしこれ好き!」と言ったのでした。兄は思ってもみない私の反応と声のボリュームにちょっと驚いたような顔をしながら「馬鹿か。俺が食うものなくなるだろ」と一言。だけど、その時自分の反応に驚いていたのは私も同じでした。

誰にでも経験があることだと思うのだけど、食べものは時にその人の人生を内包するようなところがあって、ただ一皿の料理が過去の大切な記憶と繋がることで特別な意味を持つことがあります。貧乏オムレツは父にとってそういうものだと認識していた私にとって、それを好きだと表明することは父のことを好きだと表明するのと同義でした。そして、反抗期真っ只中にあった当時の私にはそれがとても大事なことだったのだと思います。だからその時、兄の突然の言葉に激しく動揺するとともに嫌悪を覚えたのだと気がついたのは、そのしばらく後のこと。気がつくと同時に湧いてきたのは、鈍感な兄への小さな怒りと軽蔑でした。

でも最近はあの頃、兄は私と同じことを貧乏オムレツに感じていたんじゃないか、とちょっと思います。感じていながら、あえて言ったんじゃないかなぁ。
娘から見る父と、息子から見る父はどれほど違うのだろう。
私にとってはただひたすら優しい父だったけれど。


タッパーに詰まった冷たいお好み焼きを頬張りながら私の思考はどんどん過去に潜り、その途中で、あー本当に食べることで人は作られていくのだなーと思ったのでした。

雑記

・うつわの梱包のため古新聞を丸めていたら、ハプスブルグ家について書かれた記事に目が止まった。ハプスブルグ家の伝統的な埋葬方法は特殊で遺体を心臓、心臓以外の内蔵、それ以外の部分に分けて埋葬するのだとか。心臓は銀製の壺に入れられ、オーストリアのアウグスティナー教会に安置されると記事には書いてあった。すごい。ちなみに、アウグスティナー教会には現在54個の心臓が安置されているのだとか。すごい。

出生前診断についての特集をTVでしていたので見た。産むかどうかの決断を迫られたとき、旦那さんは奥さんに「俺は産んでほしいけど、産むのはお母さんだから…」と言っていて、そりゃそうだけど、でも、それは大事な決断の責任を奥さんひとりに負わせることになりはしないのかと不安になった。その夫婦は産む決断をして、最後は生まれた子供と家族の笑顔で番組が終わったのだけど、番組が終わったあともその家族の生活は続いていくというごく当たり前のことが頭を離れず、なかなかTVのスイッチを切れなかった。

・配られたカードで勝負するしかないのさ、ってスヌーピーの名言が最近Tumblrに流れてきてたなと思い出す。

・どんな生活の中にも喜びと苦しみはあって、できるだけうれしいこと楽しいことを数えて生きていきたいなぁと思う。もうすぐ30回目の誕生日がくる。

・10月に台湾旅行に行くことにした。楽しみ。

・台湾旅行は本当は9月に行こうと思っていたのだけど、さぁそろそろ航空券でも手配しましょうか!と思ったらパスポートがなくて、家中ひっくり返してもなく、途方にくれてダウジングに挑戦するもやっぱり見つからなくて、結局再発行した。旅行に行く前に16000円の出費とかぜんぜんおもしろくないし笑えないけどやっぱり笑った。

・そういえば、昔コンタクトを洗面所で流して前に買ったのと同じ店に新しいのを買いにいったら、買いにいった日の前日(ようはなくした日)が1年保証の切れる日だったみたいで、受付のお姉さんに「スゴイ!こんなついてない人見たことない!」みたいな目で見られたことがあった。

・おちこんだりもしたけれど、私はげんきです